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ケイちゃんインタビューVol.1 [ケイちゃんインタビュー]

''Memories of Pink Lady KEI''
インタビュー/ケイ

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''---子供の頃は、どんなお子さんだったのでしょうか。''
''増田'' 物心ついた頃からとにかく歌っていました。当時流行っていた歌謡曲、都はるみさん、水前寺清子さん、小学校の頃には伊東ゆかりさんやいしだあゆみさん、小川知子さん、そういった方たちの歌が好きで、当時の歌謡曲は今でも全部歌えます。とにかく歌番組は大好きで、よく観ていましたから、3~4歳ぐらいで、将来は絶対に歌手になると決めていました。

''---ミーさんとお会いになったのは、中学生の時になりますね。''
''増田'' はい、お互いが転校生だったんです。私は前の学校でもバスケットをやっていたので、バスケット部に入りましたが、課外クラブとは別に必修クラブを選ばなければならなかったんです。課外クラブでスポーツをやっている人は文科系を選ぶことになっていて、2年の時には合唱クラブに在籍していましたが、3年生のときにはなくなってしまい、演劇部を選択しました。そこでミーと出会ったんです。

''---ミーさんはどんな印象でした?''
''増田'' その必修クラブの1時間目に、渡り廊下のところで、誰かに「増田さん」って呼ばれて、振り返ったら、知らない人がいたんです。それがミーで「私、根本美鶴代っていうんだけど、今、演劇クラブで一緒だったよね」って自己紹介されました。その時にミーは髪が長くて三つ編みをしていて、本を抱えていたんです。物静かで、顔は真っ白で、本当に童話から抜け出してきたような女の子でした。私はショートカットで陽焼けをしていて、男の子みたいな友達しかいなかった中で、本当に女の子らしい女の子が目の前に現れたと思いました。自分と正反対な印象だったので、とても惹かれましたね。
その年の秋の文化祭で「松屋町筋」というお芝居をやることなって、ミーがお姉さんの役で、私が妹の役を演じました。その時からすごく仲良くなって、将来の夢を語り合うようになりました。ミーは女優、私は歌手と、目指す世界が同じだったので「一緒に頑張っていこうね」と意気投合しました。ミーは見かけは物静かで、バイタリティーがあるような子には見えなかったのですが、ある日突然、静岡に「スター誕生!」のオーディションが来たら、早速応募して、受けていたんですよ。それが学校中に広まって、「えっあの根本美鶴代が」みたいな感じで皆びっくりしたんです。誰より私が一番驚きました。その時の合格者が藤正樹さんです。それで、ミーも見掛けとは違う部分を持っているのだと思い知らされました。

''---常葉高校を選んだ理由は?''
''増田'' 静岡には合唱の強い高校がなかったのですが、常葉高校は演劇がすごく盛んで、田舎からすると芸能界に一番近いところなんです(笑)実は私は行きたい高校がありましたが、バスケットで脊髄分離すべり症になってしまって断念したんです。私の姉が常葉だったことも選択した理由です。そんな話をミーにしたら、「私も常葉に行こうと思っている」というので、一緒の高校を受けることになりました。

''---高校に入学して、SBS学園に通われますね。''
''増田'' コレはSBS(静岡放送)のカルチャースクールのようなところで、そこでモダンバレエの先生が私と同じすべり症だったのを克服したらしいと。どこから聞いてきたのか分からないですが(笑)そんなことで治るのであればと、高校1年からミーと一緒に通うようになりました。私は、半分はリハビリ的な目的もありましたね。

''---ヤマハの「チャレンジ・オン・ステージ」はどういうきっかけでしたか。''
''増田'' これは、ミーのクラスの女の子に教えてもらいました。「スター誕生!」は何年に1回しか来ないし、とにかくすぐにデビューしたかったという気持ちがありましたから。というのは、その頃もう学生でデビューしている人達が沢山いて、私達もすごく焦っていたんです。私とミーと、もう一人、ナムという友達がいて、彼女も歌が好きだったので、3人で受けました。

''---予選会でケイさんは「ジョニーへの伝言」を歌ったそうですが、この曲を選んだのは?''
''増田'' 自分の声には「ジョニーへの伝言」が一番合っていると思ったんです。今より上手かったかもしれないですね(笑)。本当に恋に疲れた女性の感じが出せていたかもしれません。それで、その場で合格を頂きました。

''---その後は浜松のヤマハで本選があるのですか。''
''増田'' はい。ヤマハの本社にホールがあって、私とミーと、ナムの3人で出場して、3人が優勝に決まりました。でも、何十年も経って気付いたんですが、普通は優勝って1人ですよね。その時は嬉しくてわからなかったのですが、何で優勝が3人もいたんでしょう(笑)それで優勝すると、ヤマハのヴォーカルスクールに通わされるのですが、ミーと「そういうところに通うと妙に上手くなっちゃって、私達の持っている良い意味での素人っぽさがなくなるから、やめよう」と断り続けていたんです。そうしたら特待生という形で、月謝は無料で良いから是非来てほしいと言われて、通うことになりました。

''---そこではどんなレッスンをするんですか。''
''増田'' 山崎朗先生という方について、ギターで発声練習をするんです。お腹の中から声を出す為に、床に寝そべって本当に複式の発声ができているかとか、お腹の上に男の人が乗って、お腹を押さえられたまま、スタッカートで声を出したり、もう本当に基礎を勉強しました。ヤマハでのレッスンが、ピンク・レディーの原型になっているのだと思います。

''---山崎先生から、二人で歌ってみたら、というアドバイスを受けたそうですね。''
''増田'' スクールに通いはじめてすぐの頃に、二人とも全然声質が違うし、きれいにハモったら面白いのでは、というところからですね。最初はなかなか上手くなりませんでした。

''---ヤマハの東海大会で「恋のレッスン」を歌うというのは、ポプコンの入選曲で課題曲になっていたのですか。''
''増田'' はい、課題曲でした。二人で歌うのなら、踊った方が良いというので二人で振り付けを考えました。ヤマハにピーマンというグループがいて、その人達の様にホットパンツをはいて踊って歌えたらと思っていたんです。私達もヤマハからデビューできると思っていましたから。つま恋の本選には「恋のレッスン」は選ばれませんでしたが、私達のステージがたんへん評判良く、ヤマハの人達も注目してくれたんです。

''---その後、いくつかのオーディションを経て、東京での最終オーディションに進まれます。''
''増田'' 高校2年の終わりか3年の頭くらいに恵比寿のエビキュラスというところでした。この最終オーディションでも優勝して、ヤマハからデビューすることが約束されましたが、なかなかその日にちも曲も決まらず決まらず、進路を決めなくてはならない時期だったので八方ふさがりという感じでした。日を追うごとに、ヤマハからデビューは無理かも知れないと不安を感じていたこともありますね。この最終オーディションの時には渋谷の国道246号沿いにあったサンルートホテルに泊まったんです。今でも覚えていますが、あの近くにある渋谷の歩道橋で、渋谷の街を見下ろしながら、自分の人生、これからどうなっていくのだろうと、都会に呑み込まれていく、田舎娘の何ともいいようのない思いを、あそこで味わっていました。今でもあの場所を通るたびに、初心を思い出すというか、胸が痛くなります。

''---そこで高3になると、他のオーディションを受けることになるのでしょうか。''
''増田'' はい。卒業までに決めなければと思って、フジテレビの『君こそスターだ!』に応募しましたが落ちてしまって。でも全く落ち込みませんでした。最後に『スター誕生!』を受けようと決めていましたから。

''『スター誕生!』の予選会はどんな感じだったですか?''
''増田'' 有楽町にある『よみうりホール』でしたが、とにかく応募者がいっぱいで、みんな客席に座って、順番に流れ作業のようにステージ下へ出て行って、2小節歌って「カーン」って鳴らされちゃう人もいるし、ワンコーラス歌える人もいるし、本当にそれぞれです。横森さんがアコーディオンを弾いて下さって、自分で譜面を渡して歌うんです。3回くらい番が回ってきて、最後は十何人かに減っていました。

''---歌ったのは「部屋を出てください」ですか?''
''増田'' 最終的には何曲か歌ったと思いますよ。それもわざと、全部ヤマハの曲にしたんです。当時、ほとんどの人が、その時に売れている曲を歌っていましたが、それではオリジナルと比べられてしまうから、私達は比べられることのない歌をわざと選んでいきました。そこで合格して、テレビ予選に出られることになったんです。

''---テレビ予選での評価はいかがでしたか。''
''増田'' 都倉先生と阿久先生が評価して下さったのですが「出来上がりすぎていて、つまらない」とか「素人っぽさがない」とか。田舎くさい格好をして行ったのですが、見破られていましたね(笑)。出場者はそのあと箱のような中に入って審査を待つのですが、合格点に達すると目の前に置いてある赤色燈が回りだすんです。私達は客席からの点数だけで合格になって、目の前の赤色燈がグルグル回って、それでもう大感動しました。今までの人生の中で、決戦大会に受かった時もさる事ながら、あの時の方がより嬉しかったようん気がします。

''---'76年2月の決戦大会に進出しますが、歌った後で「もしソロでデビューすることになったらどうしますか」と聞かれましたね。''
''増田'' ええ、本選の2~3日前に下見会というのがあります。同じようにプロダクションの人やレコード会社の人が20~30人ほどいらして、目星を付けるんですね。その時は色々な曲を歌いました。一人ずつで唄って欲しいと言われて、1人でも唄いました。下見会でも同じことを聞かれて「それぞれでと言われたら仕方ないけれど、でも、2人で3年間頑張ってきたから2人でデビューしたい」と答えました。そして「もう就職も大学も決めてないので、なんとか就職させて下さい」ってお願いしたんですよ(笑)。それ程、切羽つまっていたんです。

''---あの時ケイさんが「ビートの効いた曲を歌いたい」と発言されていますね。''
''増田''  ヤマハでは山崎先生が「She's a lady」とか、ビートの効いた曲をいっぱいレッスンさせてくれて、リズム感がとても養われましたし、自分達の一番いいところはリズム感だと思っていましたから。それに当時、アメリカのアーティストの様に歌って踊るグループはいなかったので、そこを目指したいという気持ちもありました。だからといって、ビートの効いた曲をオーディションで歌ったら、絶対に落とされると思っていました。『君こそスターだ!』の教訓です。ですから自分達は、本当はビートの効いた曲が得意なのだ!と伝えたかったのです。
''決戦大会では、プラカードが7~8社上がりましたが。''
''増田'' はい。あの時は相馬(一比古・T&C制作部長)さんが一番前に座っていて、司会の萩本欽一さんが「それでは、どうぞ」って言う前にもう、相馬さんが慌ててプラカードを挙げていました(笑)。私はその瞬間を見てしまって、もう嬉しくて顔を抑えてしまったので、相馬さんが挙げて下さった記憶が鮮明なんですよ。
''---デビューが決まって、上京したのが4月ですね。''
''増田'' 上京した時はデビューの日も決まっていませんでしたが、とにかく早くデビューしないと今年の新人賞レースに間に合わないからと、8月25日になりました。これでも遅かったんですが…。最初はフォークソングの様な曲を歌わされそうだったんです。グループ名も「白い風船」って決められたので「ああ、終わった」と(笑)その名前でシュープリームスみたいな歌、歌えませんよね。そうしたら、ある日突然「ピンク・レディー」に決まったと聞かされて、すごく嬉しかったですね。


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ケイちゃんインタビューVol.2 [ケイちゃんインタビュー]


''---ペッパー警部を最初に渡された時のことは憶えていますか?''
''増田'' 最初に「ペッパー警部」と「乾杯お嬢さん」のカラオケを聞いて、どちらの曲もイントロを聞いただけで、本当に鳥肌が立ちました。レコーディングする時に、ひとしきり泣いた覚えがあります。ヤマハでも人の曲ばかり歌っていて、それが誰にもあげなくていい、返さなくていい自分達だけの曲を頂けたことが本当に嬉しくて、それもあんなにいい曲でしたから。「乾杯お嬢さん」もイントロからゾクゾクしますよね?「ビートの効いた曲を歌いたい」って言っていた私の言葉以上にすごいビートで、もうこれは自分達の力に懸かっていると思いました。絶対に売れる!と思ったのですが、最初は「乾杯お嬢さん」の方がA面になるという気配があって、自分達としてもすごく迷いました。どちらの曲もすばらしかったですから。

''---「ペッパー警部」はどんな形でレコーディングされたのですか。''
''増田'' レコーディングの日は都倉先生がいて下さり、まずピアノの椅子に座られて「こんな風に歌って」と自ら歌って下さいました。全部がスタッカートというか、言葉と言葉の間に小さな「っ」が入るんです。「あ~な~た~の~こ~と~ば~」ではなく「あっなったっのっこっとっばっ」という形で歌って欲しいと言われました。それに、ミーの声と私の声が三度でハモった時に一番気持ちの良い部分が、最初から「ペッパ~」って登場するので、すごい快感だったのと、自分達の望んでいた通りになっていくんだ!という喜びに満ちていました。

''---ヴォーカルのレコーディングはブースに二人で入るのですか。''
''増田'' そうです。別々に入ったことはありません。私達はお互いの唇を見ながら歌いたいし、アイコンタクトも欲しいですから。それで少し向き合う感じでセッティングしてもらいました。この形は最初から最後までずっと変わりません。

''---現場でのヴォーカルのディレクションは誰がされるのでしょう。''
''増田''  都倉先生です。飯田さんは見守っているというか、割とすぐにOKを出されます。都倉先生もOKは早かったです。レコーディングはいつも夜遅くから始まっていたし、時間がなかったのかも知れませんが、私達が一番好きなのがレコーディングの仕事なので、かなり粘りました。今のように機械で合わせることはしないですから「ごめなさい、もう一回お願いします」と、しぶとかったですね、納得できないのは嫌でしたから。

''---都倉先生のディレクションについては。''
''増田'' 都倉先生の曲は歌い方があって難しいです。先ほどもお話ししましたが、強いスタッカートでないと、歌えない部分もあります。何しろ♪私の名前はカルメン「でっすっ」ですから(笑)。

''---ピンク・レディーのハーモニーは掟破りなところがありますね。''
''増田'' そう思います。

''---ハーモニーは自分達で作られるんですか。''
''増田'' デビューしてからは、もちろん都倉先生が全部ハーモニーを付けられます。一応譜面に書いてありますが、歌ってみて良さが出ないと書き換えられて、すごく難しいハモをつけられたりします。「S・О・S」などは、最初は私がハモる側で、次はミーの方がハモって私がメロディーを歌ったり、うねうねと交差していく感じですね。どちらがハモなのか分からないままレコーディングが終わったこともあります。お互いがお互いに沿うというか、お互いが弁えるというか、2人でピンク・レディーのサウンドを作ろうとするんです。

''---「カルメン'77」の出だしは、上の倍音と下の倍音が響きながら、二人でハモりながら歌っていく、あれは画期的で、日本では後にも先にもピンク・レディーしかないですね。''
''増田'' 私達の声はユニゾンでも、すごく幅があるんです。当時、スペクトラムさん達が私達のことを「驚異のユニゾン軍団」と呼んで下さったのですが、ミーの声でもない私の声でもない、ピンク・レディーのサウンドになる、その部分を歌った時に、本当に鳥肌が立ちます。その快感がやめられないというのは、ありますね。

''---土居先生の指導はいかがでしたか?''
''増田'' 恐かったです(笑)。先生はあまりしゃべらなくて、じーっと睨むように相手の目を見ています。それは後で分かったことですが、そうしないと振りのアイデアが浮かんでこないそうです。私は心の中を見破られているみたいで恐かったですね。

''---最初に「ペッパー警部」の先生の振りを見た時はどう思いましたか。''
''増田'' 手品を見ているようでした(笑)。本当に難しかったです。最初はもちろん音無しで、いろんなステップを試してみますが、すぐにできてしまうものは駄目なんですよ。誰でもできるからって。

''---しかも、生で歌いながら踊る形は、どうやって修得されたのでしょう。''
''増田'' それは場数ですね。先生に何度か「こんなに踊っていたら歌えません」って言ったのですが、先生は「俺は聞こえないよ」って(笑)。腹式で歌わなければいけないのに、どうしても胸で呼吸したくなっちゃいますもの。だから「スター誕生!」のデビューコーナーは、やはり歌えていなかった様に思います。

''---ケイさんはもともと左利きですが、振り付けで苦労することはあるんでしょうか。''
''増田'' マイクを左手で持つと、体が動かなくなるので、私はよく持ち替えていますね。当時はワイヤレスではなかったので、コードさばきもありますから、それも振りの一部になってしまったみたいです。

''---ピンク・レディーのダンスはかなり激しいですが、バスケットの時のケガのリハビリは成功したということになるのでしょうか。''
''増田'' 多分そうですね。ただケガをした直後みたいな痛みはないですが、疲れがたまったり、又長い間同じ姿勢をしていると、背中がパーンと張ってくることがあります。それが5年間やっていた中で、一番つらかったことですね。


ケイちゃんインタビューVol.3 [ケイちゃんインタビュー]

ケイちゃんインタもいよいよ最終回。
今回のインタビューでは、デビュー時からアメリカ進出時、そして解散までを振り返っています。


''---8月25日にレコードが発売されて、最初の仕事は憶えていますか?''
''増田'' いえ、憶えていません。とにかく最初からすごく忙しかったので、いつから仕事が始まったのかわからないんです。一番忘れられない仕事は、デビュー前の5月か6月頃に「月刊平凡」だと思いますが、雪山に行って、ビキニを着ての仕事でした。キャメラマンはいっぱい着込んで「はい笑って」(笑)私達はデビューがとても遅かったので、とにかく露出をしなくてはならない。と言うことで、雑誌に、ラジオ、テレビのお仕事で大忙しでした。でも、発売日の事は良く憶えていて、日本橋の高島屋の屋上で、デビュー記念コンサートをやりました。もう既にその時から30分くらいのステージでしたね。曲は、シングル曲、A、B面2曲のほかに「Rock'n Roll Coaster」とか、「Stop in the name of Love」とか歌った覚えがあります。

''---デビュー後の、手応えはありましたか。''
''増田'' なかったです。各局で新人オーディションがありましたが、皆さん渋い顔をされるんです。「何なの、その踊り」というような(笑)。ビクターの新人紹介のような会議に出ても皆さん興味がないぞ~という雰囲気で、本当に期待されていないんだナァと実感しました。制作費もあまり掛けてもらえないので、撮影の服も全部自前でした。事務所の人に衣装代を頂き、2人で原宿に行ってTシャツとホットパンツを買って、それで撮影をしていました。

''---コンサートの全体の演出や選曲は、主にどなたがなさるんでしょうか。''
''増田''  相馬さんです。衣装のデザインも基本的には相馬さんでした。

''---最初の「チャレンジ・コンサート」はショー全体の時間は90分から100分ぐらいでしょうか。''
''増田'' いえいえ、そんなに長くは苦しくてできません。1時間ちょっとだと思います。MCは台本がありましたが、ほとんどしゃべらずに、ひたすら踊って歌って、という感じでした。

''---当時のいわゆる歌謡曲のコンサートは、歌謡ショーの流れで、司会の方がいて、歌われて、ちょっとしたお芝居があってという形が主流でしたが、ピンク・レディーは、ライブについても、いわゆるエンターテイメントなものですね。''
''増田'' たぶん相馬さんの中では、ラスベガスのショーのような形が理想だったのだと思います。コンサートの曲も、自分達の持ち歌以外は全部、その当時にアメリカで売れている曲や、もうすぐ売れるだろうという曲をレパートリーにしていました。相馬さん曰く、子供向けのシングルが多い私達だからこそ、コンサートでは年相応の大人の歌を歌わせてあげたかったのだと聞いています。

''---「UFО」「サウスポー」でレコード大賞と歌謡大賞をとられて、アメリカ進出となりますが、まず、78年4月のラスベガス公演は、どんなきっかけでしたか。''
''増田'' 相馬さんが、将来はピンク・レディーをアメリカのショービジネスで成功させたいと望んでいらしたので、その第一歩だという風に、当時は思っていました。まだ英語の発音がそれほど上手ではなかったのですが。

''---実際に向こうのミュージシャンと手合わせした印象は?''
''増田'' 私達がとても若く見えるので、最初は「こんな子供がショーを?」というよな雰囲気でした。それが、私達のオリジナル曲を歌った時には、もうみんな驚いて、素晴しい!と言ってくれたのが嬉しかったです。

''---お客さんの反応はいかがでしたか。''
''増田'' 日本人のこんな若い娘がどうなの?という感じで見に来てくださったと思いますが、皆さんたいへん喜んで感激されて、最後はスタンディング・オベーションでした。

''---マイケル・ロイド・プロデュースで、いわゆる全米デビューすることになるのが79年ですね。''
''増田''  これは後楽園での7万人コンサートをポール・ドゥルーという方が観て、是非アメリカでやりたいという話になったようで、それから急遽、英語の先生をつけて頂き、日常会話や英語の発音などをレッスンしました。私は大きなチャンスだし、勿論やって良かったと思いますが、日本の仕事をこなすだけでも精一杯で、もっと力を付けてから挑みたい、という思いはすごく強かったです。でもね力を付けた時には、当然そういうチャンスはなく、その時だからこそあるのだと今は思えます。

''---アメリカでのレコーディングは日本とは違いましたか。''
''増田'' 全く違いました。まず、ホテルに缶詰状態で、英語の発音をいろいろな方に習いました。レコーディングは、マイケル・ロイドの自宅兼スタジオで、ホームレコーデングのような感じでした。発音の仕方から違っていて、それまで思い切り声を出していたのをやめるよう言われました。大人っぽい感じで売りたいからウィスパーで、という事でしたが、覚えたての英語の発音をウィスパーで歌うんですよ!?。これはとても難しかったですね。なおかつ、マイクにガーゼのようなものを被せるんです。声をセーブしているので、歌った気がしませんでしたが、出来上がりを聞くと「わー、これが私達?!」と新たな発見で感激しました。

''---「Kiss In The Dark」は日本より多分三ヶ月先行して、79年の5月に発売されて、ヒットしました。ビルボードのHOT100に入ったといういニュースを聞いてどう思いましたか。''
''増田'' もちろん嬉しかったです。ただ、日本とアメリカを行ったり来たりのレコーディングでしたし、日本のお仕事もありましたから、大変でしたね。日本でのコンサートもだいぶ前から決まっていたところへ、突然アメリカデビューですから、合い間に録っては帰ってという形でしかできませんでした。相馬さんが生前、どっちつかずではなく、経済的なことが許されれば、向こうにずっと腰を落ち着かせて、英語の勉強もして、力を蓄えてからNBCもやりたかったね、といってました。

''---NBCの「ピンク・レディー&ジェフ」はどこから来た話でしょうか。''
''増田'' 私はポールさんからの流れでのお話だとずっと思い込んでいたのですが、どうも全く違うところからのお話だったようです。相馬さんが亡くなられたので本当のところは分かりませんが、ポールは、NBCはやらせたくなかったようです。

''---このお仕事についてはどんな感想をお持ちですか。''
''増田'' あちらは日本のことをオリエンタルというくくりで考えているので、例えばご飯はしゃもじでよそうのであって、おたまではないと言っても分からない、ご飯を食べる前にドラを鳴らされる、といったような日本に対する誤解がありました。もっと日本の事を正確に伝えたかったですね。それが残念でした。

''---勘違い甚だしい部分は多々ありますが、トークも含めた2人のパフォーマンスが素晴らしいです。''
''増田'' 私は、日本でのオリジナル曲を、全く違う振り付けで歌った記憶があります。もちろん全てが英語でしたが、振り付けがとてもアメリカ的でした。その点では、本当に勉強になりました。
 でも日本では、例えば二人がバスタブに水着で入るシーンがいやらしいとか、悪評ばかりを書かれましたが、その半分以上は私の責任もあると思います。このアメリカの仕事を受けるに当たり、私自身が納得できないまま渡米したからです。それは今でも大きな反省材料です。本当は、もっと心にも時間にも余裕があって、ただの暗記ではなく、正確な英語が話せるようになり、その上であのビッグチャンスを貰えたのであれば、もっと良い形でできただろうな、というのが当時も、そして今も思うことです。でもあの時だからこそ巡り合えたチャンスだったんですよね。

''---79年は、日本では「Kiss In The Dark」と「マンデー・モナリザ・クラブ」がほとんど同時期に発売されています。「マンデー・モナリザ・クラブ」はこれまでの路線とだいぶ異質な曲ですが。''
''増田''  なにより私は大好きな曲です。あの曲を戴いた時は、デビュー曲と似たような感動がありました。どちらかと言えば子供向けの曲が多かった当時、私は年相応の歌を歌いたかったので、本当に嬉しかったです。でもこの曲を頂いた時に、阿久先生から「本当は君達、こういう歌か歌いたいんだよね」と、お手紙を頂戴しました。「ああ、皆さん分かっていてくれたんだ…」とすごく反省しました。この曲のレコーディングが本当に楽しくて、あっという間にOKを頂いて、自分では納得しているのに「もう1回お願いします」と嘘をついたような記憶があります(笑)ファンの方も大好きな曲ですよ。でもこの曲はこの間の2年間のコンサートの方がより格好よかったと思います。

''---そして80年9月に解散発表をしますが、ピンク・レディーをやり尽くした感は…?''
''増田'' やり尽くしたという思いより、責任は果たし終えた!という気持ちが大きかったです。ただ、もっと歌いたかった違うタイプの曲もあったし、踊らないで2人のハーモニーだけをじっくり聴いて欲しいと思ったこともあったし。ですから、やり尽くしたとは言い切れませんが、正直、精神的にもう限界でした。ピンク・レディーというのはプロジェクトでした。私は、そのピンク・レディー・プロジェクトを構成する1人でした。最初は小さな車輪が、一つの目的に向かって走り出し、またたく間に大きな車輪となって、次々と夢を飲み込んでいく。ある時、私というネジが緩み始めた。そして。その大きな車輪は減速し、やがて動かなくなった。という事ではないでしょうか。
 解散して、25年経った今でも、あの時、解散という結論を出した自分に対して、大きな責任を感じています。
 そうせざるを得なかった、若過ぎたと思うと胸が痛みます。

''---最後の曲が「OH!」で阿久先生、都倉先生の書下ろしですね。''
''増田'' 阿久先生が当時「今はこの歌の意味が分からないかもしれないが、何年か経って、きっとこの「OH!」の意味が分かる時が来ると思う」と仰ってました。当時は薄っぺらで、詩の内容を深く理解できませんでしたが、あれから25年の月日が流れ、昨年の5月に終わった2年間のコンサートツアーでやっと「OH!」の意味が心から理解できました。
 長い間、ピンク・レディーを、そして未唯を、増田恵子を応援し続けて下さる方々をはじめ、ピンク・レディーに関わった全ての方々にこの「OH!」を捧げたい気持ちです。
(終)

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ミイちゃんインタビューVol.1 [ミイちゃんインタビュー]

Memeries of Pink Lady MIE
''(インタビュー/ミー)''

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''---お生まれは昭和33年ですね。''
''未唯'' はい。3300gの、ミルクをたくさん飲む元気な子だったそうです。物心つく前から、お客様が来ると踊って見せたりしていたらしいです。

''---活発なお子さんでしたか。''
''未唯'' 小学校2年生くらいまでは、両親がとても厳しい中でもおてんばな女の子だったんですが、3年生の頃、母が仕事に出るようになって、当時で言う「鍵っ子」になったんですよ。そのせいか、引っ込み思案で、自分のことがなかなか言葉で表現できない子になっていったんですね。それでも音楽は好きでした。音楽の授業はすごく張り切ってやっていて、成績もずっとよかったんですよ。

''---中学時代に演劇を志したのは?''
''未唯''  人と違うことをしてみたいという思いから演劇部を選んだんですね。学園祭で役をいただいて、舞台で台詞をしゃべった時に、すごく「生きてる!」っていう実感があったんですよ。自分の言葉でなかなかしゃべれなかった子が、別の形を借りて表現できたんです。

''---末広中学に転校されてそこには演劇部がなかったので自分で作られたということですが。''
''未唯''  1年の3学期に転校してみたら、演劇部がないのでがっかりして。でも人数が揃えばクラブを作ることができるという話を先生に聴いて、友達に呼びかけて演劇部を作りました。その行動力ってそれまでの自分にはありえないようなエネルギーだったんです。スタートは8人くらいだったかなぁ。最終的には部員も15~16人ぐらいになったと思います。

''---ケイさんに最初に出会ったときのことは覚えていますか?''
''未唯''  ケイはバスケット部の有名選手で、華のある素敵な人という感じでしたね。私はぜんぜんどこにいるかわからないような子で(笑)。

''---そしてケイさんが入部してきます。''
''未唯''  ええ。「松屋町筋」という、昭和元年ぐらいの大阪のおもちゃ問屋のお話をやることになって、役も私が振り割ったので、主役の優しい妹役をケイに抜擢して、いじわるな姉の役は誰にも振ることができなくて自分ですることに(笑)。2人のシーンが多かったので、一緒に練習するうちに、ケイと将来の話をするようになって。「目指しているものが同じだったら、一緒にがんばろうよ」っていうのでどんどん親しくなっていったんです。

''---未唯さんはお1人で中学3年生のときに「スター誕生!」を受けられたそうですが。''
''未唯'' 「スター誕生」の予選会が静岡に来て、役者になるために受けたんです。1400人くらいの中の14人中に選ばれて、テレビ予選まで行きました。天地真理さんの「虹をわたって」を歌ったんですが、予選に合格したことで、そのときに「歌もひょっとしていけるかも?」なんていう気持ちが芽生えたんです。

''---テレビ予選の時の事は覚えていますか''
''未唯''  「スター誕生!」の収録の本番で、いろいろなプロの歌手の方にお会いできました。森昌子ちゃんのデビューコーナーがあったんですけど、和田アキ子さんがゲストに来ていて、本番前のステージ袖で、アキ子さんが椅子に座っていて、そのお膝に昌子ちゃんを乗せて頭をなでられたり、すごく可愛がっていたのを覚えています。「歌手になったら先輩にこんな風にかわいがってもらえるのかな」って、それがものすごくいいことのように私には映ったんですよ。私は両親とも厳しかったので、頭をなでられるとか、褒めてもらうとかをあまりしてもらえなかったせいもあったと思います。そういう理由で、役者から歌手志望に変えたんです。

''---そして2人は同じ高校へ進学するんですね。もうこの時期2人ともある程度進路を決めていたということでしょうか。''
''未唯''  はい。その頃から「歌手になる」って2人で話し合ってました。

''---ヤマハのオーディションを受けたきっかけは?''
''未唯''  高校2年の頃、クラスの女の子が、静岡の「すみや」っていうレコード店に、「あなたもスターに」というポスターがあったって教えてくれて。それがヤマハのオーディションだったんですけど。当時ケイを含めて3人仲良しがいたので、その3人で受けに行ったら3人とも合格しました。それでヤマハさんから特待生としてボーカルスクールにというお話をいただいて、一人のお友達はお家の事情で来れなかったので、ケイと二人で行くことになったんです。

''---ヤマハの「チャレンジ・オン・ステージ」で未唯さんは何を歌ったんですか。''
''未唯''  麻丘めぐみさんの「アルプスの少女」です。その時、ミモレ丈のスカートがすごく流行っていたんですよ。肩ひもがあって、ウエストのベルトが太いデザインのふわっとしたお洋服がすごく好きで、それに合う曲を選んだのかもしれない(笑)

''---ヤマハにはずっと通い続けましたか。''
''未唯''  試験があろうと、風邪ひこうと、1回も休むことなく通い続けました。モダン・バレエは静岡市内のSBS学園に中学3年から通っていて、週1回、2~3時間のレッスンでした。1人で「スター誕生!」を受けたときから、これからのアイドルはやっぱり踊りもできなくては、と思っていましたので。それで「部活を疎かにしている」って演劇部の先輩に言われて、1年だけで演劇部は辞めてしまうんです。

''---ヤマハでのレッスンとはどのようなものでしたか?''
''未唯''  週1回、日曜日のレッスンでした。レッスン自体は2~3時間ぐらいで発声とか基礎訓練もやりましたね。担当の先生は山崎朗といって、プロの歌手だったんです。トム・ジョーンズの歌を発生まで似た感じで歌われていて、その先生に憧れもあって、トム・ジョーンズがすごく好きになりました。先生は24歳ぐらいでしたけど、とっても大人に見えました。

''----その先生のアドバイスでケイさんとデュエットを組まれたそうですが。''
''未唯''  ちょうどデュエット曲をボーカルスクールで誰か歌ってくれ、という話が来たのと、先生が「2人はすごく仲がいいからデュエット組んだらどう?」って。芸能界って怖いところだから二人だと心強いでしょ、というような理由で。私たちも「なんでそこに気がつかなかったんだろう」(笑)それで、ポプコンのデュエット曲を歌わせてもらうことになったんです。そこからは、二人が声を合わせることをずっと練習していたんですね。

''---具体的にどんな曲を課題で練習したんですか。''
''未唯''  ヤマハの曲から選ぶんですけど、最初はもとまろの「サルビアの花」でした。

''---山崎先生のレッスンの方法というのは。''
''未唯''  ユニークでしたよ。クラス全体でハーモニーをつけたり、譜面も使いますけど、レッスンはピアノじゃなくてギターなんです。たぶん、ピアノだったら通ってなかったかも。そういう練習って、想像の範囲じゃないですか。

''---クッキーというグループ名はどなたが?''
''未唯''  山崎先生です。ポプコンに出るときに何かグループ名が必要だといわれて、仲間たちも「キャッツアイ」とか考えてくれたんですけど(笑)。だから山崎先生の影響ってすごく大きいですね。デュエットグループとしての基礎は、あの時がすべてだと思います。デビューしてからは、ボーカルレッスンという形はないですから。

''---歌手になることに関して、周囲の反応はいかがでしたか。''
''未唯''  高校卒業間近で、学校からも「歌手とは別に一応進路も決めておきなさい」って言われていて、でもそれは逃げ道になっているみたいでイヤだったんですね。父は猛反対でした。「そんな夢みたいなことをいつまでも言っているな」と。ボーカルスクールに通わせてくれたのは普通のお稽古事のつもりでしたから。子供の頃から父には「お婿さんをとって、実家の近くにお家を建ててあげるからそこに住みなさい」と言われていたんです。それが私はイヤで、親の引いた路線でしか走ることができないのが息苦しくて。親のそばからどうやったら離れられるだろう、というのも歌手になりたいと思った理由の1つなんです。

''---その頃未唯さんが好きだった音楽はどんなものですか?''
''未唯'' ヤマハに通い始める前は、いわゆる流行歌を聴いたり歌ったりしていました。両親ともすごく歌が好きで。家のレコードから引っ張り出して「What'd I Say」とか「ゴッドファーザー愛のテーマ」を歌ったりしていました。当時のアイドルさんの曲も得意だったんですけど、ヤマハに通い始めてからはヤマハの曲しか練習しちゃいけないので、途端に他の曲をきかなくなっちゃったんですよね。そこから急に世間が疎くなっちゃいました。


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ミイちゃんインタビューVol.2 [ミイちゃんインタビュー]

ミーちゃんにインタビュー
Memeries of Pink Lady MIE Vo.1の続きです。(良かったら、まずはそちらを先にどうぞ)

''---2人で「スター誕生!」に臨まれたときの自信のほどいかがでしたか。''
''未唯'' 不安がいっぱいと、絶対に歌手になるという意思と、絶対になれるという想いとが混在していて。でも他の出場者はほんとに何もレッスンしていない訳だから「私たち負けないよね」って、妙な自信はあったかもしれないですね。

''---決戦大会で札はたくさん挙がり合格しましたが、T&Cさん、ビクターさんと契約をなさるに至った経緯は。''
''未唯'' プラカードが挙がった中で、知っていた事務所はサンミュージックだったんです。決戦大会の後の面接で、会社のアピールをして下さる時に、サンミュージックは、司会もできたり、アイドルとして歌も、いろんな分野で活躍できるようにとおっしゃってくださってたなぁと。で、そのときプラカードはT&Cアクト・ワン・エンタープライズっていう形で挙がっていたんです。そのスカウトの相馬一比古さんは、「2人が30才になった時を目標に、本物の歌手を目指して行きたいんだ」と。彼が求めていたのはアイドルじゃないんですよ。その言葉がものすごく印象に残っていました。その後も、番組のプロデューサーから連絡があって、相馬さんが「どうしてもウチに欲しい」「二人のために新しい事務所も設立するところまで考えている」っていうことでしたので、私たちはプロデューサーにお任せすることになりました。相馬氏の情熱にかけて私たちをあずけることにして下さいました。

''ビクターからのアプローチは?''
''未唯'' ビクターは飯田久彦さんだけです。会社としてはあまり乗り気じゃなかったみたいで(笑)。飯田さん一人がどうしてもこの子たちでやりたいって思って下さっていたようです。だからデビュー時もあまり宣伝に熱が入ってないのを感じましたね(笑)。

''---ヤマハのレッスンにはいつ頃まで通っていたんですか?''
''未唯'' 「スター誕生!」に合格すると、日本テレビ音楽学院に通うことになるんですけど、「二人はそのままでいいよ」っていうことで、高校卒業まで受けていましたね。山崎先生も「よかったね。ほんとに夢がかなったね」って喜んでくれました。



''---そして'76年の4月に上京して8月25日にはもうデビューとなります''
''未唯''スター誕生では異例の速さだったそうですね。普通、合格してレッスン期間を1年ぐらいおいてからのデビューらしいんですけど、私達はもうレッスンができているから、すぐに準備にかかったようです。それでも日本テレビ音楽学院には通いながら、土居甫先生のレッスンと大本恭敬先生のボーカルレッスンをやっていました。土居先生は、この子たちはどんなことができるかって大勢の中でレッスンしながら見ていたそうですが。

''---ピンク・レディーという名前が決まったのはいつ頃でしょうか。''
''未唯'' 曲の振り付け中にピンク・レディーになりました。6月の頭ぐらいに楽曲ができあがって、私たちだけのための振り付けの練習が始まっていて、その途中くらいでしょうか。

''---楽曲ができあがった際には、レコードでいうAB面ともに2曲渡されたんですか?''
''未唯'' 最初は「ペッパー警部」だけでした。ビクターの青山のスタジオで聞かせていただいたんですけど、もうコーラスまで入って、ボーカルがないだけの状態のものでした。

''---「ペッパー警部を最初に聴いた印象は?''
''未唯'' めちゃくちゃ格好いい!!もう望んでいた通りの曲だって思いました。当時「ソウルトレイン」っていう番組が放送されていたんですが、私はその番組が大好きで、ブラックテイストで歌って踊りたかった私達には、まさに理想通りでしたね。

''---レコーディングのディレクションはどなたが?''
''未唯'' 直接、都倉先生です。

''---土居先生の振り付けは、レコーディングしてから、振り付けを覚えるまでの間は、短い期間でどんどん行われる感じでしょうか。''
''未唯'' 「ペッパー警部」は1ヵ月ありました。「S・O・S」は2日あったかなぁ。「カルメン'77」は1日くらいあったと思います。「UFO」ではもう本番2時間前とか(笑)

''---ピンクレディーのダンスのルーツはディスコダンスではないかと思うのですが。''
''未唯'' そう、ディスコですね。でも、私は静岡時代にはまったくディスコへ行った事がないんですよ。なので実地勉強のために、土居先生と赤坂の「夢幻」に行って、黒人が踊っているところを先生が指差して「ああいう動きはダメなんだ」「あのノリはいいんだぞ」とか言って、ディスコサウンドのノリを体験させてもらいました。

''---「ソウルトレイン」を見ていたことがピンク・レディーのダンスには役に立っているんでしょうか?''
''未唯'' 役に立ったかも知れないですよね。こういう感じが大好きだっていうのがありましたから。土居先生が「二人をディスコクィーンにしたい」って言ってくれたときには、すごくうれしかったですね。

''---ところで、2人の立ち位置はいつからあの立ち位置になったんですか。''
''未唯'' それは中学校の頃からです。いつも腕を組んだり手をつないで学校から帰るんですが、私は右利きでカバンを右手に持って、ケイは左利きなんで左手に持つことで必然的に決まったんです。それ以来、なにも持っていなくてもこの位置じゃなきゃダメなんです。

''---立ち位置が変わった楽曲ってありますか?''
''未唯'' ありません。多分、要求されたらいやですって、はっきり言ったかもしれないですね。歌うときだけじゃなくて、取材とか撮影でもそうだし、別に仕事じゃなくても常にケイは左側にいてくれないとダメなんですよ。


''---「S・O・S]」がチャートの1位を記録したときは、どんな感想をもちましたか。''
''未唯'' それが「ペッパー警部」の途中くらいまで、チャート誌のことをものすごく気にしていたんですけど、50位に入る前で忙しくなって、もうチャートのことを意識する余裕がなくなっていきましたね。

''---そういった忙しさは、時間の感覚がわからなくなっていたというのを話に聞くんですけど、それくらい忙しいものでしょうか?''
''未唯'' とにかくマネージャーのかかとを見つめて、ついていくだけっていう感じで、どこにいるのか、なんの仕事なのか、ぜんぜん把握してなかったと思います。1日のうちに沢山の仕事を詰め込むために、午前中はラジオと取材で、昼くらいからテレビを掛け持ちしながらやって、夜の11痔過ぎぐらいから、取材とかコマーシャル撮りとかレコーディングが朝方ぐらいまでって感じですね。でも途中から取材時間を取るのも厳しくなってきて。当時、テレビの撮りはホールが多かったので、そうすると、ホールの入口から自分の楽屋に行きつくまでに5つくらい取材が待ち受けているんですよ(笑)。インタビューも歩きながらだったり。

''---だんだん現実感がなくなっていく感じでしょうか。''
''未唯'' もうひたすら頑張るのみですね。頑張ってないと意識がなくなっちゃうんですよ。インタビューでもケイが話していると、私はだんだん意識がなくなってきちゃって(笑)そんな状態で仕事していました。レコード大賞をいただくまでは、お休みは一日もなかったように思います。

''---「カルメン'77」から「ウォンテッド」くらいまではブラックミュージックとかソウルテイストな曲で、ダンスもそれに合わせているようなんですが。''
''未唯'' うん、そうですね。デビュー曲から「UFO」くらいまでは、ほんとにディスコが入ってるなっていう風に、今も思いますし。それがすごく格好よくて、うれしくて、難しくてもやりがいがありました。「サウスポー」くらいからちょっと色合いが変わったように思います。あとから聞いた話ですけど、「サウスポー」が二転三転して、最初はまったく別楽曲だったと聞きました。先生方にすごく無理を聞いていただいて、最終的に「サウスポー」に決まったらしいんですけど。その「サウスポー」のリリースになるはずだったのが「ドラゴン」なのかな。「事件が起きたらベルが鳴る」ができたのもその時期だった聞いたように思います。

''ピンク・レディー時代は自分たちの歌いたい歌を主張することはなかったのですか。''
''未唯'' 主張はしませんでした。20歳を過ぎた頃に独り言の様な事は言っていたかも…。阿久先生が「2人がブラックテイストの曲を歌いたいと言っていたなぁ」というのを思い出して、そろそろ出してやろうじゃないか、ということで作られたのが「マンデー・モナリザ・クラブ」なんですって。うれしかったですね。

''---テレビやステージで歌われて、やはり気持ちのいいものでしたか?''
''未唯'' そうですね。「どうだ!」っていう感じです。

''---「愛・GIRI GIRI」と「Last Pretender(ラスト・プリテンダー)」はテレビで歌ったことはあるんですか?''
''未唯'' あの、ずっとないと思ってたんですよ。「Last Pretender(ラスト・プリテンダー)」は間違いなくレコーディングだけでしか歌ってなくて、「愛・GIRIGIRI」も同じだと思い込んでいたのですが、2003年からの2年間のピンク・レディー限定ツアー中に、ファンの方から「テレビで歌ってます」って言われて、「ええーっ、そうだったの!?』(笑)まったく記憶になかったんですよね。

''---振付は全て土居先生ですか?''
''未唯'' B面を自分で振り付けたのもいくつかありますね。「乾杯お嬢さん」とか、「逃げろお嬢さん」もそうですし、「KISS IN THE DARK」とかその他にも何曲か自分達でやっています

ミイちゃんインタビューVol.3 [ミイちゃんインタビュー]

『PINK LADY PLATINUM BOX』のオールカラー・フォトブックから、
ミーちゃんのインタビューVol.3です。
Vol.1Vo.2がまだの方は、よかったらどうぞ。


''---最初のアメリカ進出は、78年4月にラスベガスで2daysのショーですね。その話を聞かされたときの感想は?''
''未唯'' やっぱりアイドルじゃなくて本物の歌手になりたい思いはありましたので、いつかはそんな夢が叶うならばいいなという思いはありましたけど、この頃はまだバリバリのアイドルじゃないですか。そんな時にラスベガスでショーをやることは恐れ多いことですよね。もっと経験も積んで、歌もうまくなって、全てが洗練されてきたころに、ようやくできることだと思っていたから、「今じゃない」っていう風に思いました。

''---実際にラスベガスに入られて、現場でリハーサルをしたときは、どう感じましたか?''
''未唯'' 一番すごないと思ったのは、ステージ上の音が、まるでステレオで聴いているみたいにそれぞれの音も、自分たちの声も鮮明に聞こえてくるんですよ。最高に気持ちよく歌えました。今考えると、後にも先にもあんなにすばらしい音響状態で歌ったのはないですね。

''---ステージは緊張しましたか?''
''未唯'' 緊張しました。ふだんあまり緊張することってないんですけどね。スタートは、ステージの両サイドから登場することになっていて、私は膝がガクガクしながら向こう側にいるケイの姿を一生懸命追っていたんです。そんな自分にも初めて出会えましたね。でも、アメリカのステージスタッフが「こんな子供にステージができるのか?」って言っているのを耳にして、私たちが13,4歳に見えたようで、それを耳にして、「冗談じゃないぞ」ってまたムクムクと闘争心が沸いてきました(笑)。

''---お客さんの反応はいかがでしたか?''
''未唯'' 紳士淑女のおめかしした大人のお客様たちが、じっくり聴いて拍手もちゃんとしてくださるんです。最後にスタンディング・オベーションをしてくださる中、手を振ったときに、きれいな黒人の女性の方が握手を求めてくださったのに感激して、衣装につけていた何かを差し上げたような覚えがあります。そう言えば、はちまちをした日本人の男の子が一人だけ応援に来てくれてましたね。

''---アメリカのレコーディングのきっかけとなったのは78年の後楽園球場でのコンサートですね。''
''未唯'' そうですね。リハーサルしているときに、「今日はアメリカのプロデューサーが見に来ているからね。これが終わったらレコーディングにも行くから」って聞いたのが最初だったと思います。でも、私はもうここまできてしまうと、何を言い渡されてもあんまりびっくりしなくなっていて「あっ、今度はアメリカか」「へぇ、すごいね、ピンク・レディーって」ぐらいの感じで(笑)

''---そして、マイケル・ロイドのプロデュースで、全米デビューになりますが、マイケル・ロイドはどんな人でしたか。''
''未唯'' 穏やかなやさしいお兄さん。レコーディングはマイケルの自宅でするんですけど、最初のレコーディングは古いお家だったんです。ゲストルームだった部屋に、マイク立ててやっちゃうくらいの感じで、ドアもちゃんと閉まらなくて、こんなところでいいの?っていう場所で、最初のレコーディングはスタートしているんですね。最初の3曲をそこで録りました。それが78年の10月です。次のレコーディングで行った時には、もうすごいビバリーヒルズの豪邸になっていて、自宅のお庭にレコーディングブースも建てられていました。いつも「じゃあ軽く練習してみようか」っていう感じで歌い始めるんですね。何回か練習した後む「じゃあ本番お願いします」って言ったら「はい、録れましたよ」って(笑)。頑張らない声が欲しかったんですよね。

''---コミュニケーションはどういう形で?''
''未唯'' もちろん先生方は英語なので、なんとか…(笑)

''---同じ頃、「波乗りパイレーツ」のカップリングサイドをブルース・ジョンストンがプロデュースしていますね。''
''未唯'' ビーチボーイズとの出会いはキャピングカーにいらっしゃるところでご挨拶したのは覚えているんですよ。彼らのレコーディングも立ち会うことが出来ました。わぁきれいとか思って。

''---A面とB面でかなりテンポが違いますが。''
''未唯'' アレンジが違いますから、ぜんぜん歌いづらいということはありませんでしたね。どちらかというとアメリカ版のほうが好きでした。

''---「ピンクレディー アンド ジェフ」の話は、どういう経緯でしょうか?''
''未唯'' 79年に出演したレイフ・ギャレットの番組は、全米デビューのプロモーションですが、その後、お話を聞くところでは、NBCの当時のトップだったフレッド・シルバーマンっていう人がレイフの番組の放送を見て、「この子たち面白いじゃないか」っていうことで「パイロット版を作ってみろ」と。それで、30分番組のパイロット版を作ることになったんです。これがオーディションだったんですね。これを気にいってもらってOKになったんですよね。

''---あの番組は英語で、しかもコントをやっているじゃないですか。どのようにして覚えたんですか?''
''未唯'' 最初に番組のプロデューサーに挨拶に行って、延々30分くらいお話をしてくださって、少しでもわかろうと一生懸命聞いていたんですが、最後に「Did you understand?」って聞かれて2人で「No」って言ったらプロデューサーがうけちゃって(笑)それもコントで使ったんですよ。もらった台本も必死で憶えました、丸暗記です。

''---あの番組は視聴率も良くて、LA地区だと特にすごくよかったそうですが。''
''未唯'' 2回目の放送くらいから、もう車に乗っていると「HEY! PINK LADY!」って声がかかっちゃうくらいになって。最初は6本の契約だったんですけど、途中から10本に変更して欲しいっていう要望があったくらいですから。だから帰ってきた後も、二人組の女性のコメディアンたちが、ピンク・レディーのものまねをいっぱいやっていたと聞いています。でも日本では大失敗みたいな書かれ方をされましたね。

''---日本に再び活動の拠点を置きますが、その辺りはどんないきさつでしたか?''
''未唯'' アメリカ進出は、ピンク・レディー・プロジェクトの夢だったんですね。私も幸いに同じ方向を向いていたので、何の疑問もなく走れたんですが、ケイは違っていたんです。アメリカ側は、Mieと英語が堪能な東洋人を組ませてでもピンク・レディーをアメリカ市場で続行したかったようです。でも、それはないですよね。ミィとケイだからこそピンク・レディーなんだから!という事で、お約束の仕事終了までで、帰ってきました。

''---解散に至った経緯を伺いたいのですが。''
''未唯'' 私の個人的な話では、まず、アメリカの番組が終わって帰国した空港のロビーに、山のようにマスコミがいらっしゃって、成功を祝ってのインタビューがされるものだと思っていたら、だんだんお話が不仲説、解散説、ということに話がいって、「はぁ?」っていう感じだったんですね。私は後から思ったことですが、やはりピンク・レディーの成功はマスコミ、特にテレビによって導かれ生かされたと思っています。だから、終わりもマスコミ主導にならざるを得ないのでしょうね。もうひとつは、ケイに心から愛する人がいて、事務所から結婚か仕事か、どちらかを選びなさいと迫られていました。その頃、ケイから「解散することになってもいいかな?」との問いかけがあり、私は一も二も無く「ケイが幸せになれる事だったら、もちろんいいよ」って答えました。
 でも、全体的にみると、ピンク・レディーブームが終わりを告げていたんです。ブームの頃は、この波が去ったあとに、本来、私達がやりたかった音楽ができるようになるんだろうから、そこまで頑張ろうって、逆にブームが去るのを待ち望んでいたようなところがあったんですけど。でもこの頃は、世間的に「もう終わるべきじゃないか」という空気が押し寄せてきて、私も「ピンク・レディーとしては、やり遂げたかも知れない」っていう風に思えましたし、誰のコントロール下でもなくモンスターになったピンク・レディーは別次元に行ってしまったかも知れませんね。たとえば30万枚セールスのアーティストだったとしても、すごいことじゃないですか。でも、ピンク・レディーはミリオンじゃなかったら違うっていうような、そんな感じかな。

''---後楽園でのファイナル・コンサートについての感想を。''
''未唯'' 自分でもどんな気持ちになるのか、すごく知りたかったんですね。もしかしたら淋しいとか、自分の意思じゃないから悔しいとか、何かがあるのかなあと思ったんですけど、実際終わってみて、すごくほっとしている自分に意外でしたね。すごく重たい荷物を下ろしたような気がしました。(於、モーアーティスト)

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長文にも関わらず、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
3回に渡ってお届けした、ミーちゃんのインタビュー記事は、いかがでしたか?
ピンク・レディーのアメリカ進出について、当時は大失敗だと批評されましたが、決してそうではなかったと、30年経った今、再確認出来ました。
そして、
ベストテン番組が隆盛だったため、ヒットしない曲イコールダメな曲。
との先入観がありましたが、解散間際の後期には、改めて聴くと、とてもいい曲がたくさんあることにも、気づきました。

「ピンク・レディー/プラチナボックス」のインタビューなどを、いつでもWebで読み返せるように、と書いてみた、この記事ですが、書くことによって頭に入り、Webという特性も生かして、リンクなどを張ることも出来ました。

ミーちゃんの他には、もちろんケイちゃんや、阿久悠さん、都倉俊一さんなどのインタビューも掲載されているので、時間を見つけて、少しずつ書いていきます。とても読み応えのあるインタビューなので、良かったらまた読んでみてくださいね。



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