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ミイちゃんインタビューVol.1 [ミイちゃんインタビュー]

Memeries of Pink Lady MIE
''(インタビュー/ミー)''

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''---お生まれは昭和33年ですね。''
''未唯'' はい。3300gの、ミルクをたくさん飲む元気な子だったそうです。物心つく前から、お客様が来ると踊って見せたりしていたらしいです。

''---活発なお子さんでしたか。''
''未唯'' 小学校2年生くらいまでは、両親がとても厳しい中でもおてんばな女の子だったんですが、3年生の頃、母が仕事に出るようになって、当時で言う「鍵っ子」になったんですよ。そのせいか、引っ込み思案で、自分のことがなかなか言葉で表現できない子になっていったんですね。それでも音楽は好きでした。音楽の授業はすごく張り切ってやっていて、成績もずっとよかったんですよ。

''---中学時代に演劇を志したのは?''
''未唯''  人と違うことをしてみたいという思いから演劇部を選んだんですね。学園祭で役をいただいて、舞台で台詞をしゃべった時に、すごく「生きてる!」っていう実感があったんですよ。自分の言葉でなかなかしゃべれなかった子が、別の形を借りて表現できたんです。

''---末広中学に転校されてそこには演劇部がなかったので自分で作られたということですが。''
''未唯''  1年の3学期に転校してみたら、演劇部がないのでがっかりして。でも人数が揃えばクラブを作ることができるという話を先生に聴いて、友達に呼びかけて演劇部を作りました。その行動力ってそれまでの自分にはありえないようなエネルギーだったんです。スタートは8人くらいだったかなぁ。最終的には部員も15~16人ぐらいになったと思います。

''---ケイさんに最初に出会ったときのことは覚えていますか?''
''未唯''  ケイはバスケット部の有名選手で、華のある素敵な人という感じでしたね。私はぜんぜんどこにいるかわからないような子で(笑)。

''---そしてケイさんが入部してきます。''
''未唯''  ええ。「松屋町筋」という、昭和元年ぐらいの大阪のおもちゃ問屋のお話をやることになって、役も私が振り割ったので、主役の優しい妹役をケイに抜擢して、いじわるな姉の役は誰にも振ることができなくて自分ですることに(笑)。2人のシーンが多かったので、一緒に練習するうちに、ケイと将来の話をするようになって。「目指しているものが同じだったら、一緒にがんばろうよ」っていうのでどんどん親しくなっていったんです。

''---未唯さんはお1人で中学3年生のときに「スター誕生!」を受けられたそうですが。''
''未唯'' 「スター誕生」の予選会が静岡に来て、役者になるために受けたんです。1400人くらいの中の14人中に選ばれて、テレビ予選まで行きました。天地真理さんの「虹をわたって」を歌ったんですが、予選に合格したことで、そのときに「歌もひょっとしていけるかも?」なんていう気持ちが芽生えたんです。

''---テレビ予選の時の事は覚えていますか''
''未唯''  「スター誕生!」の収録の本番で、いろいろなプロの歌手の方にお会いできました。森昌子ちゃんのデビューコーナーがあったんですけど、和田アキ子さんがゲストに来ていて、本番前のステージ袖で、アキ子さんが椅子に座っていて、そのお膝に昌子ちゃんを乗せて頭をなでられたり、すごく可愛がっていたのを覚えています。「歌手になったら先輩にこんな風にかわいがってもらえるのかな」って、それがものすごくいいことのように私には映ったんですよ。私は両親とも厳しかったので、頭をなでられるとか、褒めてもらうとかをあまりしてもらえなかったせいもあったと思います。そういう理由で、役者から歌手志望に変えたんです。

''---そして2人は同じ高校へ進学するんですね。もうこの時期2人ともある程度進路を決めていたということでしょうか。''
''未唯''  はい。その頃から「歌手になる」って2人で話し合ってました。

''---ヤマハのオーディションを受けたきっかけは?''
''未唯''  高校2年の頃、クラスの女の子が、静岡の「すみや」っていうレコード店に、「あなたもスターに」というポスターがあったって教えてくれて。それがヤマハのオーディションだったんですけど。当時ケイを含めて3人仲良しがいたので、その3人で受けに行ったら3人とも合格しました。それでヤマハさんから特待生としてボーカルスクールにというお話をいただいて、一人のお友達はお家の事情で来れなかったので、ケイと二人で行くことになったんです。

''---ヤマハの「チャレンジ・オン・ステージ」で未唯さんは何を歌ったんですか。''
''未唯''  麻丘めぐみさんの「アルプスの少女」です。その時、ミモレ丈のスカートがすごく流行っていたんですよ。肩ひもがあって、ウエストのベルトが太いデザインのふわっとしたお洋服がすごく好きで、それに合う曲を選んだのかもしれない(笑)

''---ヤマハにはずっと通い続けましたか。''
''未唯''  試験があろうと、風邪ひこうと、1回も休むことなく通い続けました。モダン・バレエは静岡市内のSBS学園に中学3年から通っていて、週1回、2~3時間のレッスンでした。1人で「スター誕生!」を受けたときから、これからのアイドルはやっぱり踊りもできなくては、と思っていましたので。それで「部活を疎かにしている」って演劇部の先輩に言われて、1年だけで演劇部は辞めてしまうんです。

''---ヤマハでのレッスンとはどのようなものでしたか?''
''未唯''  週1回、日曜日のレッスンでした。レッスン自体は2~3時間ぐらいで発声とか基礎訓練もやりましたね。担当の先生は山崎朗といって、プロの歌手だったんです。トム・ジョーンズの歌を発生まで似た感じで歌われていて、その先生に憧れもあって、トム・ジョーンズがすごく好きになりました。先生は24歳ぐらいでしたけど、とっても大人に見えました。

''----その先生のアドバイスでケイさんとデュエットを組まれたそうですが。''
''未唯''  ちょうどデュエット曲をボーカルスクールで誰か歌ってくれ、という話が来たのと、先生が「2人はすごく仲がいいからデュエット組んだらどう?」って。芸能界って怖いところだから二人だと心強いでしょ、というような理由で。私たちも「なんでそこに気がつかなかったんだろう」(笑)それで、ポプコンのデュエット曲を歌わせてもらうことになったんです。そこからは、二人が声を合わせることをずっと練習していたんですね。

''---具体的にどんな曲を課題で練習したんですか。''
''未唯''  ヤマハの曲から選ぶんですけど、最初はもとまろの「サルビアの花」でした。

''---山崎先生のレッスンの方法というのは。''
''未唯''  ユニークでしたよ。クラス全体でハーモニーをつけたり、譜面も使いますけど、レッスンはピアノじゃなくてギターなんです。たぶん、ピアノだったら通ってなかったかも。そういう練習って、想像の範囲じゃないですか。

''---クッキーというグループ名はどなたが?''
''未唯''  山崎先生です。ポプコンに出るときに何かグループ名が必要だといわれて、仲間たちも「キャッツアイ」とか考えてくれたんですけど(笑)。だから山崎先生の影響ってすごく大きいですね。デュエットグループとしての基礎は、あの時がすべてだと思います。デビューしてからは、ボーカルレッスンという形はないですから。

''---歌手になることに関して、周囲の反応はいかがでしたか。''
''未唯''  高校卒業間近で、学校からも「歌手とは別に一応進路も決めておきなさい」って言われていて、でもそれは逃げ道になっているみたいでイヤだったんですね。父は猛反対でした。「そんな夢みたいなことをいつまでも言っているな」と。ボーカルスクールに通わせてくれたのは普通のお稽古事のつもりでしたから。子供の頃から父には「お婿さんをとって、実家の近くにお家を建ててあげるからそこに住みなさい」と言われていたんです。それが私はイヤで、親の引いた路線でしか走ることができないのが息苦しくて。親のそばからどうやったら離れられるだろう、というのも歌手になりたいと思った理由の1つなんです。

''---その頃未唯さんが好きだった音楽はどんなものですか?''
''未唯'' ヤマハに通い始める前は、いわゆる流行歌を聴いたり歌ったりしていました。両親ともすごく歌が好きで。家のレコードから引っ張り出して「What'd I Say」とか「ゴッドファーザー愛のテーマ」を歌ったりしていました。当時のアイドルさんの曲も得意だったんですけど、ヤマハに通い始めてからはヤマハの曲しか練習しちゃいけないので、途端に他の曲をきかなくなっちゃったんですよね。そこから急に世間が疎くなっちゃいました。


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ミイちゃんインタビューVol.2 [ミイちゃんインタビュー]

ミーちゃんにインタビュー
Memeries of Pink Lady MIE Vo.1の続きです。(良かったら、まずはそちらを先にどうぞ)

''---2人で「スター誕生!」に臨まれたときの自信のほどいかがでしたか。''
''未唯'' 不安がいっぱいと、絶対に歌手になるという意思と、絶対になれるという想いとが混在していて。でも他の出場者はほんとに何もレッスンしていない訳だから「私たち負けないよね」って、妙な自信はあったかもしれないですね。

''---決戦大会で札はたくさん挙がり合格しましたが、T&Cさん、ビクターさんと契約をなさるに至った経緯は。''
''未唯'' プラカードが挙がった中で、知っていた事務所はサンミュージックだったんです。決戦大会の後の面接で、会社のアピールをして下さる時に、サンミュージックは、司会もできたり、アイドルとして歌も、いろんな分野で活躍できるようにとおっしゃってくださってたなぁと。で、そのときプラカードはT&Cアクト・ワン・エンタープライズっていう形で挙がっていたんです。そのスカウトの相馬一比古さんは、「2人が30才になった時を目標に、本物の歌手を目指して行きたいんだ」と。彼が求めていたのはアイドルじゃないんですよ。その言葉がものすごく印象に残っていました。その後も、番組のプロデューサーから連絡があって、相馬さんが「どうしてもウチに欲しい」「二人のために新しい事務所も設立するところまで考えている」っていうことでしたので、私たちはプロデューサーにお任せすることになりました。相馬氏の情熱にかけて私たちをあずけることにして下さいました。

''ビクターからのアプローチは?''
''未唯'' ビクターは飯田久彦さんだけです。会社としてはあまり乗り気じゃなかったみたいで(笑)。飯田さん一人がどうしてもこの子たちでやりたいって思って下さっていたようです。だからデビュー時もあまり宣伝に熱が入ってないのを感じましたね(笑)。

''---ヤマハのレッスンにはいつ頃まで通っていたんですか?''
''未唯'' 「スター誕生!」に合格すると、日本テレビ音楽学院に通うことになるんですけど、「二人はそのままでいいよ」っていうことで、高校卒業まで受けていましたね。山崎先生も「よかったね。ほんとに夢がかなったね」って喜んでくれました。



''---そして'76年の4月に上京して8月25日にはもうデビューとなります''
''未唯''スター誕生では異例の速さだったそうですね。普通、合格してレッスン期間を1年ぐらいおいてからのデビューらしいんですけど、私達はもうレッスンができているから、すぐに準備にかかったようです。それでも日本テレビ音楽学院には通いながら、土居甫先生のレッスンと大本恭敬先生のボーカルレッスンをやっていました。土居先生は、この子たちはどんなことができるかって大勢の中でレッスンしながら見ていたそうですが。

''---ピンク・レディーという名前が決まったのはいつ頃でしょうか。''
''未唯'' 曲の振り付け中にピンク・レディーになりました。6月の頭ぐらいに楽曲ができあがって、私たちだけのための振り付けの練習が始まっていて、その途中くらいでしょうか。

''---楽曲ができあがった際には、レコードでいうAB面ともに2曲渡されたんですか?''
''未唯'' 最初は「ペッパー警部」だけでした。ビクターの青山のスタジオで聞かせていただいたんですけど、もうコーラスまで入って、ボーカルがないだけの状態のものでした。

''---「ペッパー警部を最初に聴いた印象は?''
''未唯'' めちゃくちゃ格好いい!!もう望んでいた通りの曲だって思いました。当時「ソウルトレイン」っていう番組が放送されていたんですが、私はその番組が大好きで、ブラックテイストで歌って踊りたかった私達には、まさに理想通りでしたね。

''---レコーディングのディレクションはどなたが?''
''未唯'' 直接、都倉先生です。

''---土居先生の振り付けは、レコーディングしてから、振り付けを覚えるまでの間は、短い期間でどんどん行われる感じでしょうか。''
''未唯'' 「ペッパー警部」は1ヵ月ありました。「S・O・S」は2日あったかなぁ。「カルメン'77」は1日くらいあったと思います。「UFO」ではもう本番2時間前とか(笑)

''---ピンクレディーのダンスのルーツはディスコダンスではないかと思うのですが。''
''未唯'' そう、ディスコですね。でも、私は静岡時代にはまったくディスコへ行った事がないんですよ。なので実地勉強のために、土居先生と赤坂の「夢幻」に行って、黒人が踊っているところを先生が指差して「ああいう動きはダメなんだ」「あのノリはいいんだぞ」とか言って、ディスコサウンドのノリを体験させてもらいました。

''---「ソウルトレイン」を見ていたことがピンク・レディーのダンスには役に立っているんでしょうか?''
''未唯'' 役に立ったかも知れないですよね。こういう感じが大好きだっていうのがありましたから。土居先生が「二人をディスコクィーンにしたい」って言ってくれたときには、すごくうれしかったですね。

''---ところで、2人の立ち位置はいつからあの立ち位置になったんですか。''
''未唯'' それは中学校の頃からです。いつも腕を組んだり手をつないで学校から帰るんですが、私は右利きでカバンを右手に持って、ケイは左利きなんで左手に持つことで必然的に決まったんです。それ以来、なにも持っていなくてもこの位置じゃなきゃダメなんです。

''---立ち位置が変わった楽曲ってありますか?''
''未唯'' ありません。多分、要求されたらいやですって、はっきり言ったかもしれないですね。歌うときだけじゃなくて、取材とか撮影でもそうだし、別に仕事じゃなくても常にケイは左側にいてくれないとダメなんですよ。


''---「S・O・S]」がチャートの1位を記録したときは、どんな感想をもちましたか。''
''未唯'' それが「ペッパー警部」の途中くらいまで、チャート誌のことをものすごく気にしていたんですけど、50位に入る前で忙しくなって、もうチャートのことを意識する余裕がなくなっていきましたね。

''---そういった忙しさは、時間の感覚がわからなくなっていたというのを話に聞くんですけど、それくらい忙しいものでしょうか?''
''未唯'' とにかくマネージャーのかかとを見つめて、ついていくだけっていう感じで、どこにいるのか、なんの仕事なのか、ぜんぜん把握してなかったと思います。1日のうちに沢山の仕事を詰め込むために、午前中はラジオと取材で、昼くらいからテレビを掛け持ちしながらやって、夜の11痔過ぎぐらいから、取材とかコマーシャル撮りとかレコーディングが朝方ぐらいまでって感じですね。でも途中から取材時間を取るのも厳しくなってきて。当時、テレビの撮りはホールが多かったので、そうすると、ホールの入口から自分の楽屋に行きつくまでに5つくらい取材が待ち受けているんですよ(笑)。インタビューも歩きながらだったり。

''---だんだん現実感がなくなっていく感じでしょうか。''
''未唯'' もうひたすら頑張るのみですね。頑張ってないと意識がなくなっちゃうんですよ。インタビューでもケイが話していると、私はだんだん意識がなくなってきちゃって(笑)そんな状態で仕事していました。レコード大賞をいただくまでは、お休みは一日もなかったように思います。

''---「カルメン'77」から「ウォンテッド」くらいまではブラックミュージックとかソウルテイストな曲で、ダンスもそれに合わせているようなんですが。''
''未唯'' うん、そうですね。デビュー曲から「UFO」くらいまでは、ほんとにディスコが入ってるなっていう風に、今も思いますし。それがすごく格好よくて、うれしくて、難しくてもやりがいがありました。「サウスポー」くらいからちょっと色合いが変わったように思います。あとから聞いた話ですけど、「サウスポー」が二転三転して、最初はまったく別楽曲だったと聞きました。先生方にすごく無理を聞いていただいて、最終的に「サウスポー」に決まったらしいんですけど。その「サウスポー」のリリースになるはずだったのが「ドラゴン」なのかな。「事件が起きたらベルが鳴る」ができたのもその時期だった聞いたように思います。

''ピンク・レディー時代は自分たちの歌いたい歌を主張することはなかったのですか。''
''未唯'' 主張はしませんでした。20歳を過ぎた頃に独り言の様な事は言っていたかも…。阿久先生が「2人がブラックテイストの曲を歌いたいと言っていたなぁ」というのを思い出して、そろそろ出してやろうじゃないか、ということで作られたのが「マンデー・モナリザ・クラブ」なんですって。うれしかったですね。

''---テレビやステージで歌われて、やはり気持ちのいいものでしたか?''
''未唯'' そうですね。「どうだ!」っていう感じです。

''---「愛・GIRI GIRI」と「Last Pretender(ラスト・プリテンダー)」はテレビで歌ったことはあるんですか?''
''未唯'' あの、ずっとないと思ってたんですよ。「Last Pretender(ラスト・プリテンダー)」は間違いなくレコーディングだけでしか歌ってなくて、「愛・GIRIGIRI」も同じだと思い込んでいたのですが、2003年からの2年間のピンク・レディー限定ツアー中に、ファンの方から「テレビで歌ってます」って言われて、「ええーっ、そうだったの!?』(笑)まったく記憶になかったんですよね。

''---振付は全て土居先生ですか?''
''未唯'' B面を自分で振り付けたのもいくつかありますね。「乾杯お嬢さん」とか、「逃げろお嬢さん」もそうですし、「KISS IN THE DARK」とかその他にも何曲か自分達でやっています

ミイちゃんインタビューVol.3 [ミイちゃんインタビュー]

『PINK LADY PLATINUM BOX』のオールカラー・フォトブックから、
ミーちゃんのインタビューVol.3です。
Vol.1Vo.2がまだの方は、よかったらどうぞ。


''---最初のアメリカ進出は、78年4月にラスベガスで2daysのショーですね。その話を聞かされたときの感想は?''
''未唯'' やっぱりアイドルじゃなくて本物の歌手になりたい思いはありましたので、いつかはそんな夢が叶うならばいいなという思いはありましたけど、この頃はまだバリバリのアイドルじゃないですか。そんな時にラスベガスでショーをやることは恐れ多いことですよね。もっと経験も積んで、歌もうまくなって、全てが洗練されてきたころに、ようやくできることだと思っていたから、「今じゃない」っていう風に思いました。

''---実際にラスベガスに入られて、現場でリハーサルをしたときは、どう感じましたか?''
''未唯'' 一番すごないと思ったのは、ステージ上の音が、まるでステレオで聴いているみたいにそれぞれの音も、自分たちの声も鮮明に聞こえてくるんですよ。最高に気持ちよく歌えました。今考えると、後にも先にもあんなにすばらしい音響状態で歌ったのはないですね。

''---ステージは緊張しましたか?''
''未唯'' 緊張しました。ふだんあまり緊張することってないんですけどね。スタートは、ステージの両サイドから登場することになっていて、私は膝がガクガクしながら向こう側にいるケイの姿を一生懸命追っていたんです。そんな自分にも初めて出会えましたね。でも、アメリカのステージスタッフが「こんな子供にステージができるのか?」って言っているのを耳にして、私たちが13,4歳に見えたようで、それを耳にして、「冗談じゃないぞ」ってまたムクムクと闘争心が沸いてきました(笑)。

''---お客さんの反応はいかがでしたか?''
''未唯'' 紳士淑女のおめかしした大人のお客様たちが、じっくり聴いて拍手もちゃんとしてくださるんです。最後にスタンディング・オベーションをしてくださる中、手を振ったときに、きれいな黒人の女性の方が握手を求めてくださったのに感激して、衣装につけていた何かを差し上げたような覚えがあります。そう言えば、はちまちをした日本人の男の子が一人だけ応援に来てくれてましたね。

''---アメリカのレコーディングのきっかけとなったのは78年の後楽園球場でのコンサートですね。''
''未唯'' そうですね。リハーサルしているときに、「今日はアメリカのプロデューサーが見に来ているからね。これが終わったらレコーディングにも行くから」って聞いたのが最初だったと思います。でも、私はもうここまできてしまうと、何を言い渡されてもあんまりびっくりしなくなっていて「あっ、今度はアメリカか」「へぇ、すごいね、ピンク・レディーって」ぐらいの感じで(笑)

''---そして、マイケル・ロイドのプロデュースで、全米デビューになりますが、マイケル・ロイドはどんな人でしたか。''
''未唯'' 穏やかなやさしいお兄さん。レコーディングはマイケルの自宅でするんですけど、最初のレコーディングは古いお家だったんです。ゲストルームだった部屋に、マイク立ててやっちゃうくらいの感じで、ドアもちゃんと閉まらなくて、こんなところでいいの?っていう場所で、最初のレコーディングはスタートしているんですね。最初の3曲をそこで録りました。それが78年の10月です。次のレコーディングで行った時には、もうすごいビバリーヒルズの豪邸になっていて、自宅のお庭にレコーディングブースも建てられていました。いつも「じゃあ軽く練習してみようか」っていう感じで歌い始めるんですね。何回か練習した後む「じゃあ本番お願いします」って言ったら「はい、録れましたよ」って(笑)。頑張らない声が欲しかったんですよね。

''---コミュニケーションはどういう形で?''
''未唯'' もちろん先生方は英語なので、なんとか…(笑)

''---同じ頃、「波乗りパイレーツ」のカップリングサイドをブルース・ジョンストンがプロデュースしていますね。''
''未唯'' ビーチボーイズとの出会いはキャピングカーにいらっしゃるところでご挨拶したのは覚えているんですよ。彼らのレコーディングも立ち会うことが出来ました。わぁきれいとか思って。

''---A面とB面でかなりテンポが違いますが。''
''未唯'' アレンジが違いますから、ぜんぜん歌いづらいということはありませんでしたね。どちらかというとアメリカ版のほうが好きでした。

''---「ピンクレディー アンド ジェフ」の話は、どういう経緯でしょうか?''
''未唯'' 79年に出演したレイフ・ギャレットの番組は、全米デビューのプロモーションですが、その後、お話を聞くところでは、NBCの当時のトップだったフレッド・シルバーマンっていう人がレイフの番組の放送を見て、「この子たち面白いじゃないか」っていうことで「パイロット版を作ってみろ」と。それで、30分番組のパイロット版を作ることになったんです。これがオーディションだったんですね。これを気にいってもらってOKになったんですよね。

''---あの番組は英語で、しかもコントをやっているじゃないですか。どのようにして覚えたんですか?''
''未唯'' 最初に番組のプロデューサーに挨拶に行って、延々30分くらいお話をしてくださって、少しでもわかろうと一生懸命聞いていたんですが、最後に「Did you understand?」って聞かれて2人で「No」って言ったらプロデューサーがうけちゃって(笑)それもコントで使ったんですよ。もらった台本も必死で憶えました、丸暗記です。

''---あの番組は視聴率も良くて、LA地区だと特にすごくよかったそうですが。''
''未唯'' 2回目の放送くらいから、もう車に乗っていると「HEY! PINK LADY!」って声がかかっちゃうくらいになって。最初は6本の契約だったんですけど、途中から10本に変更して欲しいっていう要望があったくらいですから。だから帰ってきた後も、二人組の女性のコメディアンたちが、ピンク・レディーのものまねをいっぱいやっていたと聞いています。でも日本では大失敗みたいな書かれ方をされましたね。

''---日本に再び活動の拠点を置きますが、その辺りはどんないきさつでしたか?''
''未唯'' アメリカ進出は、ピンク・レディー・プロジェクトの夢だったんですね。私も幸いに同じ方向を向いていたので、何の疑問もなく走れたんですが、ケイは違っていたんです。アメリカ側は、Mieと英語が堪能な東洋人を組ませてでもピンク・レディーをアメリカ市場で続行したかったようです。でも、それはないですよね。ミィとケイだからこそピンク・レディーなんだから!という事で、お約束の仕事終了までで、帰ってきました。

''---解散に至った経緯を伺いたいのですが。''
''未唯'' 私の個人的な話では、まず、アメリカの番組が終わって帰国した空港のロビーに、山のようにマスコミがいらっしゃって、成功を祝ってのインタビューがされるものだと思っていたら、だんだんお話が不仲説、解散説、ということに話がいって、「はぁ?」っていう感じだったんですね。私は後から思ったことですが、やはりピンク・レディーの成功はマスコミ、特にテレビによって導かれ生かされたと思っています。だから、終わりもマスコミ主導にならざるを得ないのでしょうね。もうひとつは、ケイに心から愛する人がいて、事務所から結婚か仕事か、どちらかを選びなさいと迫られていました。その頃、ケイから「解散することになってもいいかな?」との問いかけがあり、私は一も二も無く「ケイが幸せになれる事だったら、もちろんいいよ」って答えました。
 でも、全体的にみると、ピンク・レディーブームが終わりを告げていたんです。ブームの頃は、この波が去ったあとに、本来、私達がやりたかった音楽ができるようになるんだろうから、そこまで頑張ろうって、逆にブームが去るのを待ち望んでいたようなところがあったんですけど。でもこの頃は、世間的に「もう終わるべきじゃないか」という空気が押し寄せてきて、私も「ピンク・レディーとしては、やり遂げたかも知れない」っていう風に思えましたし、誰のコントロール下でもなくモンスターになったピンク・レディーは別次元に行ってしまったかも知れませんね。たとえば30万枚セールスのアーティストだったとしても、すごいことじゃないですか。でも、ピンク・レディーはミリオンじゃなかったら違うっていうような、そんな感じかな。

''---後楽園でのファイナル・コンサートについての感想を。''
''未唯'' 自分でもどんな気持ちになるのか、すごく知りたかったんですね。もしかしたら淋しいとか、自分の意思じゃないから悔しいとか、何かがあるのかなあと思ったんですけど、実際終わってみて、すごくほっとしている自分に意外でしたね。すごく重たい荷物を下ろしたような気がしました。(於、モーアーティスト)

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長文にも関わらず、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
3回に渡ってお届けした、ミーちゃんのインタビュー記事は、いかがでしたか?
ピンク・レディーのアメリカ進出について、当時は大失敗だと批評されましたが、決してそうではなかったと、30年経った今、再確認出来ました。
そして、
ベストテン番組が隆盛だったため、ヒットしない曲イコールダメな曲。
との先入観がありましたが、解散間際の後期には、改めて聴くと、とてもいい曲がたくさんあることにも、気づきました。

「ピンク・レディー/プラチナボックス」のインタビューなどを、いつでもWebで読み返せるように、と書いてみた、この記事ですが、書くことによって頭に入り、Webという特性も生かして、リンクなどを張ることも出来ました。

ミーちゃんの他には、もちろんケイちゃんや、阿久悠さん、都倉俊一さんなどのインタビューも掲載されているので、時間を見つけて、少しずつ書いていきます。とても読み応えのあるインタビューなので、良かったらまた読んでみてくださいね。



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